文明への感謝と自爆行為

 どうでもいいことだが、自宅のトイレを改装した。和式から洋式に変更になった。これは僕にとっての一大革命といってよい。

 マイトイレ歴史を思い出してみると、小学生ぐらいの時にトイレ自体は水洗になっていたと思う。周囲の家は水洗の切り替え時に洋式にするご家庭が多かったのだが、我が家は和式を選択した。両親の田舎に行けばまだ“ボットン式”がメジャーだった時代のお話。僕も、『トイレと言えば和式。和式にあらずんば、トイレにあらず。』と思っていたからこの措置は歓迎だった。

 和式の利点はやはり“ふんばりが利く”ということ。“一撃必殺”で我が分身の『ミスター・ブラウン』を離脱させる空間としてはベストだろう。幼少時からの習慣というのは恐ろしいもので、外出時にどうしても洋式しか無い場所だと、腹がよじれそうな“イエローアラート時”であっても出るものが出ないというビックリなことも多々あった。また家族内で共用するならともかく、外出時の誰が使ったか判らんトイレに座るというのに抵抗感あったのも確かである。


 しかしプチヒッキーな僕でも理解出来るのは、洋式の確実な普及という社会の情勢である。駅やコンビニのトイレなどの『誰が使ったのか知りたくもないチャンピオン』なスペースは永久・未来永劫和式にしておいてほしいところだが、出先の半パーソナル(こんな言葉は無いが)なエリアは確実に洋式化してる現状である。訪問先の会社等でもユニット工法の建物は洋式が多いし、個人宅のマンションなど大抵洋式である。旅行に行けば100%洋式だし。

 で、出先のホテルの洋式トイレにウォシュレットが付属していた。今まで付いていても無視していたのだが、出先の解放感とかなり清潔なホテルだったこともあり、ウォシュレットデビューを果たした。


 衝撃だった。


 オシリを洗うという行為がこれほどとは。排泄という行為は日常存在でありながらクローズされた空間で行なわれるいわば非日常であり、同じ毎日繰り返される行為と比較するなら、食や入浴を陽とするならトイレは陰と思っていた。

 どれも日常に欠かせない行為なはずだが、トイレ特有の閉鎖性や孤独感は独自のものである。箸の持ち方や風呂の浸かり方はコミュニケーションで改善可能だが、ケツのシワの面倒は己で考えるしかない。ウォシュレットはそこに差す一筋の光である。


 陽光とは比べものにはなろうはずは無いが、月明かりがあれば人は歩いていける。

 偉大な一歩を踏み出した気がする。快適なトイレライフを送りたいと思っている。




 ところで工務店からの請求書に書かれている金額を見た。そのケタの多さに途端にケツの穴がしまって、三日ほどトイレに行ってない。『プロジェクトX』ではウォシュレットの素晴らしさはこれでもかというほど放送していたが、金額の偉大さまでは言ってくれてなかった。ちなみにウォシュレットの正式名称はシャワートイレらしい。ウォークマン→ヘッドフォンステレオ、バンドエイド→絆創膏、みたいなもんか。